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行動経済学やナッジを企業経営にどう生かすか


ノーベル経済学賞を受賞したナッジをはじめとして、企業経営に行動経済学や心理学などの科学的な知見をどう生かすことができるかを解説します。


要点

  • 人の考え方を正論で変えるのは難しいため、考え方ではなく行動を変えることが重要。
  • 行動を変えるための仕掛けとして「ナッジ」があるが、持続的な行動変容を促しにくいなどの限界もあるため、適材適所で使う必要がある。
  • ナッジの活用だけでは不十分なため、ナッジを含め、行動経済学・心理学の知見全体を適材適所で活用して、人の心に寄り添ったコミュニケーションに変革するBXアプローチが企業経営に求められている 。

正論で「考え方」を変えることは難しい

誰かを動かしたいとき、私たちは正論を説くことによって、その人の「考え方」を変えようとしがちです。しかし、人の考え方は容易に変わるものではありません。自分自身や部下の考え方を変えようとしてもなかなかうまくいかないという経験は、多くの方がお持ちだと思います。人の考え方は、進化・遺伝・発達などの長期にわたる影響によって形成されており、一時のコミュニケーションで人の考え方を変えて人を動かすのはとても困難です1

しかし、人を動かす際に、考え方を変えることは手段(KPI)であって目的(KGI)ではありません。あくまで目的は、行動を変えることです。従って、考え方を変える必要がない場合もあります。 相手の考え方を無理に変えようとせずに、行動を変えることに焦点を当てたアプローチの一つが、「ナッジ」です。

 

「ナッジ」とは何か

ナッジ(nudge)とは、「人の心のクセを利用することで、『ついつい』してしまう行動を促すちょっとした仕掛け」のことです。”nudge”という英単語は「肘で軽く突く」という意味があり、「強制せずにそっと促す」というニュアンスが込められています。この方法は、リチャード・セイラー教授(シカゴ大学)が提唱したもので、2017年にノーベル経済学賞を受賞したこともあり、ビジネス・政策の現場において近年大きな注目を集めてきました2

著名なナッジの具体例として、オランダのスキポール空港の例が挙げられます。同空港では、男性用の小便器の中央に小バエを描くことにより、清掃費の大幅な削減に成功しました。「ハエなどの害虫が止まっているとつい狙いたくなる」という心のクセを利用した効果です2

「ナッジ」とは何か

また、ノーベル経済学賞を受賞したセイラー教授自身のSave More Tomorrowプログラムの例も著名です。セイラー博士は、人々の貯蓄行動を促すために、「今すぐ貯蓄する」ことではなく、「1年後の昇給時から貯蓄する」という選択肢を提示し、1年後に給与の額が上がったら、その一部を貯蓄することにコミットさせるプログラムを開始しました。その結果、実際に貯蓄率が3.5~13.6%上がったといいます3

人は、「今貯蓄することは苦痛でも、将来貯蓄する苦痛はより小さい」という心のクセを持っています。つまり、目先の利益やコストに強く影響を受けます(これを「現在バイアス」と呼びます)。そこで、貯蓄行動などの促したい行動を、将来の利益ではなく目先の利益と、そして現在のコストではなく将来のコストとひも付ける工夫を行うことで、より行動変容を促進することができます。

なお、ナッジを使いこなすためのフレームワークの一例として、MINDSPACEが参考になります4。先ほど紹介した、男性用小便器の小バエの例は顕著性ナッジ、Save More Tomorrowプログラムの例はインセンティブ・ナッジの一種として解釈できるでしょう。

「ナッジ」とは何か

「ナッジ」で人を動かすアプローチの限界

しかし、ナッジを使ったアプローチには限界があります。その最大の理由は、ちょっとした行動ではなく、関心・こだわりが強い行動や、継続的な行動を促す際に、ナッジは効きにくいからです。

例えば、高額な省エネ家電を購買させたり、長期間にわたって節電への協力行動を促したりする場合に、ナッジはあまり効果的ではないようです。

実際に、経済産業省が令和2年に行った実証事業では、省エネ型の冷蔵庫・テレビ・エアコンという高額家電の消費を促進するために、ナッジを適用したバナー広告やウェブサイト(ランディングページ)の効果がほぼないことが示されています5。また、別の研究では、電力消費のピークシフトへの協力を求める際に、ナッジ的な仕掛けは最初の数日間は一時的に効果があるものの、その後は人々が慣れてしまって効果が消えてしまう(持続的な行動変容には効かない)という結果が示されました6

このように、ナッジは決して「魔法のつえ」ではありません。関心・こだわりが強い行動や、継続的な行動を促そうとする場合、ナッジだけでは不十分なのです。

 

単なる「ナッジ」から、BX(行動科学トランスフォーメーション)へ

企業が顧客や従業員などのステークホルダーの行動を変えるためには、ナッジという手法だけに頼らず、行動経済学や心理学の知見全体を適材適所で活用することが必要です。このように、科学的な根拠を起点として、人の心に寄り添った形に企業のコミュニケーションのあり方を変革(トランスフォーム)することを、筆者らはBX(行動科学トランスフォーメーション:Behavioral Insight Transformation)と呼んでいます。

行動変容アプローチの適材適所(ナッジの限界)

ナッジは、例えばレジへの並び方を変えることのように、3秒で人が動くような、簡単で小さな行動を促す際に有効です。この場合、上図のLevel 1やLevel 2に該当する「ついうっかり」する行動や、「すぐできる」ならする行動を促していることになります。

しかし、再エネ電力プランの契約や保険・金融商品への加入のように、3秒で判断することが難しい(関心やこだわりが強い)行動を変えたい場合は、ナッジだけでは不十分です。このような場合は、上図のLevel 3やLevel 4に該当する「得だから・損したくない」や「好き・こだわりたい」から行動しようという気持ちを、正論に頼らずに醸成する必要があります。その際には、人の心のクセや、人が本能的に持ちやすい関心・こだわりを理解した上で、心に寄り添ったコミュニケーションを設計することが有効です。

具体的には、「得だから・損したくない」という気持ちを引き出す際には、同じインセンティブの原資だとしても、インセンティブの与え方を工夫することで効果を高めることができます(上図のLevel 3)。例えば、同じ1,500円のインセンティブでも、一度に与えるよりも分割して与える(2回に分けて750円ずつ与える)方が、人はお得感を強く感じます7。これは、「同じ財の2単位目(例:100円から200円になる際の100円の増分)が与えるお得感は、1単位目(例:0円から100円になる際の100円の増分)よりも小さく感じられる」という心のクセが働くからです。このように、インセンティブの与え方に関する科学的な知見を活用することで、こだわりが強い行動や、持続的な行動をより効果的に促すことができます。もちろん、ここで紹介した以外にも、膨大な科学的知見が存在します。
 

また、「好き・こだわりたい」という気持ちを刺激する際には、人が持つ本能を考慮することが不可欠です(上図のLevel 4)。例えば、「気候変動への配慮」は人の本能として弱いものです8。これは、進化的に見て、未来の不確実なリスクよりも現在の利益を優先するように人はできているからです。一方で、「自分の子供の繁栄」は人の本能として強力です9。そのため、「使わない部屋のライトを消さないと子供の教育上悪い」というメッセージは、「環境のために節電しよう」というメッセージよりも、人の行動を変える効果が高くなります。


さらに、「好き・こだわりたい」という気持ちを醸成する際には、人によって異なる関心・こだわりに寄り添うことも重要です。例えば、米国で環境に配慮するように保守層を動かすには、「地球や動植物の保護が必要」という保守層の心に寄り添わない「正論」ではなく、「環境に優しいライフスタイルが、自国の安全保障や経済成長に結び付く」という、保守層の心に寄り添ったコミュニケーションが効果的であることが実験研究で示されています10。実例としても、気候変動やESGに否定的とされる米国の共和党の上院議員が、「中国にフェアに競争させるためには国境炭素税が必要」だと、結果的に気候変動に配慮した主張をし始めているそうです11


このように、「正論で人を動かすのは難しい」ことを前提とした上で、ナッジという手法だけに頼らず、行動経済学や心理学の知見全体を適材適所で活用し、科学を起点に人の心に寄り添ったコミュニケーションを設計するBX(行動科学トランスフォーメーション)のアプローチ12が、企業経営において今求められているのではないでしょうか。


  1. ITmediaビジネス「『環境に優しいから』では動かない社員 やる気にさせる『科学的アプローチ』とは ?」、https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2303/31/news063.html (2023年7月24日アクセス)
  2. リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン(遠藤真美訳)『実践行動経済学』(日経BP、2009年)
  3. Thaler, R. H., & Benartzi, S., Save More TomorrowTM: Using Behavioral Economics to Increase Employee Saving(Journal of Political Economy, 112(S1), S164–S187, 2004)
  4. Dolan, P., Hallsworth, M., Halpern, D., King, D., Metcalfe, R., & Vlaev, I., Influencing behaviour: The mindspace way(Journal of Economic Psychology, 33(1), 264-277, 2012)
  5. ザッツコーポレーション「経済産業省 令和2年度省エネルギー促進に向けた広報事業(ナッジを活用した需要喚起型の一般向け情報発信事業)」[報告書] R3.3
  6. Ito, K., Ida, T., & Tanaka, M., Moral suasion and economic incentives: Field experimental evidence from energy demand(American Economic Journal: Economic Policy, 10(1), 240-267, 2018)
  7. Nisa, C. F., Bélanger, J. J., & Schumpe, B. M., Parts greater than their sum: randomized controlled trial testing partitioned incentives to increase cancer screening(Ann N Y Acad Sci, 1449(1), 46-55, 2019)
  8. Gifford, R., The dragons of inaction: Psychological barriers that limit climate change mitigation and adaptation(American Psychologist, 66(4), 290–302, 2011)
  9. Ko, A., Pick, C. M., Kwon, J. Y., Barlev, M., Krems, J. A., Varnum, M. E. W., Neel, R., Peysha, M., Boonyasiriwat, W., Brandstätter, E., Crispim, A. C., Cruz, J. E., David, D., David, O. A., de Felipe, R. P., Fetvadjiev, V. H., Fischer, R., Galdi, S., Galindo, O., . . . Kenrick, D. T., "Family matters: Rethinking the psychology of human social motivation": Corrigendum(Perspectives on Psychological Science, 16(2), 473–476, 2021)
  10. Hurst, K., & Stern, M. J., Messaging for environmental action: The role of moral framing and message source(Journal of Environmental Psychology, 68, 101394, 2020)
  11. ワシントンポスト「Senators eye carbon border tax to combat climate change, counter China」 https://www.washingtonpost.com/politics/2023/06/07/senators-eye-carbon-border-tax-combat-climate-change-counter-china/ (2023年7月24日アクセス)
  12. EY.com「行動経済学・心理学を起点としたコンサルティングサービス – BX Strategy」 https://www.ey.com/ja_jp/consulting/bx-strategy (2023年7月24日アクセス)

関連リリース

EY Japan、行動経済学・心理学による社会課題解決型の行動促進で創出される市場規模は約11兆円強と試算

EYストラテジー・アンド・コンサルティング株式会社(東京都千代田区、代表取締役社長:近藤 聡)は、行動経済学・心理学など行動科学を活用し、健康増進、環境配慮、エシカル消費、老後資産形成、保険加入、デジタル活用、ダイバーシティ、エクイティ&インクルーシブネス(DE&I)、ワークライフバランス充実など社会課題解決型の行動を促した際に生み出すことができる市場規模が、11兆1229億円であるという結果をまとめました。また、この試算を受け行動経済学・心理学を起点とした経営コンサルティングサービス「BX Strategy (Behavioral Insight Transformation Strategy)」を本格化します。

EY Japan + 1

    サマリー

    「ナッジ」は人の心のクセを利用することで、考え方を変えることなく、自然と行動させる仕掛けです。ナッジは、ちょっとした行動を促す上では有効ですが、関心・こだわりが強い行動や継続的な行動を促すためには、行動経済学・心理学の知見全体を適材適所で活用して、人の心に寄り添ったコミュニケーションに変革するBXアプローチが必要です。


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