EYとは、アーンスト・アンド・ヤング・グローバル・リミテッドのグローバルネットワークであり、単体、もしくは複数のメンバーファームを指し、各メンバーファームは法的に独立した組織です。アーンスト・アンド・ヤング・グローバル・リミテッドは、英国の保証有限責任会社であり、顧客サービスは提供していません。
要点
Section 1
昨年の大河ドラマでも注目された渋沢栄一の生き方を示した『論語と算盤』(※)。その根底にある考え方を踏まえつつ、人材の大切さ、すなわち人的資本について、栄一の玄孫(5代目の孫)に当たる、シブサワ・アンド・カンパニー株式会社代表取締役で、コモンズ投信株式会社取締役会長の渋澤健氏が語りました。
シブサワ・アンド・カンパニー株式会社 代表取締役/コモンズ投信株式会社 取締役会長
渋澤 健 氏
今、新しい価値が注目を集めています。これまで企業経営にはもっぱら「株主価値」の向上に努めることが求められてきました。これに対しニューノーマルにおいては、株主だけでなく顧客や従業員、取引先、そして社会に至るまで、多様なステークホルダーの価値を高めていくことが重要である、つまり「ステークホルダー・キャピタリズム」が、ダボス会議などでも取り上げられるほど公然に示されつつあります。言い換えれば「CSR」(企業の社会的責任)から「ESG」(環境・社会・ガバナンス)への転換がうたわれ、経営者の意識、資本主義の意識のど真ん中に来る時代になりつつあります。
これは、岸田内閣が推進し、渋澤氏も参画した「新しい資本主義実現会議」が目指すところと相通ずるものがあります。渋澤氏は「新しい資本主義が目指しているのは『成長か分配か』ではなくて、成長と分配の好循環を作ろうという考え方です。これまで資本主義が取り残していた外部不経済を是正し、資本主義の中に取り込んでいこうという話なのです」と述べ、現在の資本主義に対する問題提起であるとしました。
さて、日本の資本主義の父といえば、渋澤氏の高祖父である渋沢栄一です。栄一は、資本主義という言葉ではなく、「本」(もと)という価値を作り上げていく要素を合わせていくことで価値を生み出す「合本主義」という言葉を提唱していました。例えるならば、一滴一滴のしずくは小さく、単独では効果がなくとも、それを銀行という場に集め、流れを合流させていけばまさに大河となり、大きな力を生み出すといったものです。
栄一が合本主義という言葉で日本に資本主義を導入した理由は、一部の人たちだけの利益を追求するためではありません。金銭的なしずくを一滴一滴集めていけば、今日よりもよい明日を築くのに必要な成長性ある資金を社会の隅々に循環させ、社会変革につなげていくことができるといった考えからでした。同じように新しい資本主義も、単に時代に適合するためだけでなく社会を変革させていく意気込みが必要だと言います。具体的には、取り残された外部性を取り入れ、包摂性がある資本主義を目指しているのです。
もう1つのポイントは、「一滴一滴のしずく」が意味するのは金銭だけではないということです。栄一は500余りの会社の設立に関与していましたが、そこでは資本だけでなく、多くの人々の協力が不可欠でした。つまり、一人一人の思いや行動といった「人的資本」が集まることによって初めて、新しい時代が切り開かれるというわけです。
「そう考えていくと、新しい資本主義には、企業の新しい価値の定義も必要ではないでしょうか」と渋澤氏は述べました。事実、新しい資本主義の会合においてもそうした議論があり、時価総額のような財務的な価値だけでなく、人的資本を始めとする非財務的な価値を深掘りし、可視化していくための取り組みが始まっています。
また、渋澤氏が立ち上げたコモンズ投信でも、投資価値を判断する際には「収益力」という数値化が可能な評価基準に加え、それを支える「競争力」「経営力」「対話力」とそれらの根本にある「企業文化」を含む5つの点を重視しているそうです。後者になればなるほど可視化は難しくなりますが、そうした見えない価値、非財務的な価値があるからこそ持続可能な価値が生じるのであり、長期投資においてはその部分をいかに見極めるかが重要だとしています。
なお、多くの経営者と会話をしてきた渋澤氏によると、どの会社も「わが社の最大の財産は人だ」とおっしゃるそうです。しかし、人という財産は、バランスシートのどこにも計上されていません。しかも損益報告書上は、人を削り取れば単年度の利益は高まります。しかし果たしてそれらは持続可能な価値でしょうか。渋澤氏は、厚生労働省が平成30年に公表した、日本企業の人材への投資が欧米に比べ桁違いに低いというショッキングなレポートを示し、こうしたデータを直視しつつ、人にいかに投資し、人の価値をいかに可視化していくかが重要だと言及しました。
Section 2
さまざまな読み解き方をしてきた渋沢栄一の講演集。渋澤氏によると「その真髄は、一見無関係な何かと何かを合わせ、化学反応を起こして新たな価値を生み出す『と』の力にある」と言います。
EY アジアパシフィック ピープル・アドバイザリー・サービス 日本地域代表 パートナー
鵜澤 慎一郎
次に渋澤氏が読み解いたのは、本書で栄一が何を示そうとしたかです。
本書は、今から100年以上前に出版された渋沢栄一の講演集です。その中で栄一は、「一個人のみ大富豪になっても、社会の多数がために貧困に陥るような事業であったらどうであろうか」「正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができない」といった言葉を残しています。
「栄一がこれらの言葉を通して訴えたかったのは何か。それは『サステナビリティ』ではないか」と渋澤氏は述べました。算盤勘定ができなければ、サステナビリティはありません。自分の算盤だけ見つめていても、どこかでつまずいてしまうかもしれません。かといって、世の中が変化する中で論語だけ読んでいても、これまた持続可能性に欠けてしまいます。つまり、論語と算盤は、未来に向かって前進する車の両輪であり、それによってサステナビリティが実現できる、というわけです。
サステナビリティを実現する上でもう1つ重要なことは「インクルージョン」つまり、包摂性です。これが意味するものは、結果平等ではありません。どのような生まれであろうと、どのような立場であろうと、自分たちが与えられている能力や才能、可能性をフルに生かし、参画できる社会、つまり機会平等こそが、新たな時代に目指すべきフェアで豊かな社会であると栄一は考えていたといいます。
最後に渋澤氏は、論語と算盤に表された渋沢栄一の心は、たった一言、いや一文字で表現できるとしました。それは「と」、すなわち「and」です。
世の中にはもう1つ、大切な力があります。それは「か」、すなわち「or」の力です。「か」の力は選別して進む力であり、効率性や生産性を高め、組織運営には不可欠な力となっています。しかし渋澤氏は、「か」の力だけでは新たなイノベーションは生まれず、全く関係なさそうな何かと何かを合わせようとする「と」の力があって初めて化学反応が起こり、新しい価値が生まれると述べました。
渋澤氏は、実は日本人は、豊かな「と」の力を持っていると考えているそうです。それを示す一例が、渋澤氏の好物である「カレーうどん」だといいます。インド発祥でイギリスを経て日本に入ってきたカレーと、中国発祥のうどん、そこにだしを足すことで、おいしいカレーうどんが生まれました。しかし、こうした「と」の力に恵まれながら、いろいろな組織の壁や規制に阻まれ、その力をフルに発揮できていない部分があるのではないかとも指摘しました。
このことはDX(デジタルトランスフォーメーション)においても同様です。DXはあくまで手段であり、「か」の力ですが、DXによって組織間、組織内の壁を越えることができれば、いろいろな化学反応が起きる可能性があります。そういう意味では、「と」の力と「か」の力は決して別物というわけではなく、その2つを合わせることによって新たな価値を作ることができる、というわけです。
世界を見渡すと、今、世の中では壮大な「と」の力が求められています。それはSDGs(持続可能な開発目標)です。SDGsでは、誰一人として取り残さないという人道的な目標が掲げられています。これはまさに論語と算盤の両面を示すものと言えるでしょう。社会貢献という論語だけで、企業が食べていくことはできません。ではどうやって算盤、つまり利益を出すかといえば、社会に新たな価値を提供することによってです。つまり算盤の源は社会における価値創造であり、SDGsにはそういった新たな価値創造という側面があるとしました。
SDGsを語る上ではしばしば、「ムーンショット」というキーワードが用いられます。今できていることの延長線上で道筋を着実に描いていくフォーキャスティングではなく、飛躍できる前提で未来の姿を描き、そこからバックキャスティングしていくシナリオ作成の概念です。
一般に企業の中期経営計画などではフォーキャスティングのアプローチが取られ、ある程度できそうなものが取り込まれます。逆にムーンショットの考え方では、そもそもテーブルに載せていなかったような案件や新たな市場が見えてくる可能性があります。渋澤氏は、このバックキャスティングのベクトル「と」フォーキャスティングのベクトルが合ったところで、新たな価値が生まれる可能性があるとしました。
それができるのは、私たち人間が他のどの動物にもない、未来を想像する力を持っているからです。人類は古代から想像力を生かし、今はできていないものも、こうなったらどうなるだろうと飛躍して考え、その連鎖をつないできました。それが今の文明につながっています。つまり、飛躍して現実「と」つなげる力は、人間力そのものであり、AI(人工知能)にも追いつけない領域です。
今日本政府は、2050年までに完全なカーボンニュートラルを実現するというムーンショット目標を掲げています。この目標を見て「大変そうだ」と思う一方で、「もしそれが実現できたら、自分の子供たち、孫たちはどんな暮らしをするだろうか」というイマジネーションの種がまかれたのではないでしょうか。そんな風に、飛躍して現実とつなぐ「と」の力によって新たな価値を作り、一歩、二歩と先に進むことができる。それが人間力であり、人的資本経営につながるのではないかと渋澤氏は講演を締めくくりました。
Section 3
400人以上の方に登録いただくほど注目を集めた今回の講演。視聴者から寄せられた、見えない価値をどのように評価し、新しい価値につなげていくかを問う熱心な質問に対し、EYアジアパシフィック ピープル・アドバイザリー・サービスの日本地域代表 パートナー、鵜澤慎一郎の進行で、渋澤氏が答えていきました。
まず、「否定的な意見もある中、人的資本について定量的なデータの開示が求められる背景をどう考えていますか?」という質問がありました。どうしても「やらされ感」がある実情に対し、渋澤氏は、ESGのうちまず「G」(ガバナンス)から定量化が始まり、次に、科学的根拠に基づいて数値化しやすい「E」(環境)が広がっていった経緯を説明しました。一方「S」(社会)については、「まだ共通言語がありません。何を見せれば人的資本をきちんとメジャメントできるか、まだ議論を深める必要があるでしょう」と答えました。
そして、まだ明確になっていないからこそ、日本から「人的資本はこういう形でメジャメントすべきであり、こういった部分が大切です」とインプットしていくことが大事ではないかと述べました。
そもそも情報開示はそれ自体が目的ではなく、企業の価値を高めるためのものです。渋澤氏は「情報を開示することにより、現状とのギャップが生まれます。それを分析し、可視化し、縮めていくことによって新しい価値が生まれます」と述べ、企業価値を高めるためというマインドで情報開示に取り組むべきと加えました。鵜澤も同意し、「起こったことに対する結果をどう開示するかで悩むだけでなく、経営と人的資本を結び付け、どうありたいかという将来像を発表していくことに使えるでしょう」とマインドセットの変化を呼びかけました。
次に、デジタル化、DXがSDGsにもたらす影響についての質問に対して、渋澤氏は、紙の打刻による労働管理を単にデジタル化するだけではDXにはならず、「何をアウトプットしたか」を可視化していくことがポイントだとしました。そして並行して、日本の労働市場の流動性を高め、市場を通して労働価値を高めていくことが必要ではないかと述べました。
さらに、決算資料に正確性、透明性が求められるのと同様に、人的資本の情報開示においても第三者による検証が必要ではないか、という質問もありました。これに対し渋澤氏は、検証の必要性に同意しつつ、これまでの財務的な検証が「過去」を対象としていたのに対し、非財務的な価値は「未来」に向けたシナリオの妥当性を検証するものであり、その意味で大きなパラダイムシフトが生じるだろうと述べました。
これを受け鵜澤も「非財務的な価値が過去の振り返りも将来の投資価値だとすると、それを判断するのは市場しかないかもしれません。すでに市場において、A社よりもB社の株価が高いといった形で、市場が非財務的な価値をジャッジし、投資しています。この事実こそ、人的資本にいかに投資するかが大事なポイントであることを示していると思います」と述べました。
もう1つ、見逃せないのが中小企業の問題です。人的資本への投資は、内部留保の多い大企業だけのものと捉えられがちですが、その打開策について渋澤氏は、「じり貧でDXにつぎ込むリソースがない、最初からできない、というのではなく、どうやったらできるかというマインドを持つ中小企業であればいろんな可能性が広がるのではないでしょうか」と述べました。
また『論語と算盤』の話を受け、「これまでの企業では、選択と集中といった具合に『か』の力が強調されがちでしたが、『と』の力を取り戻すにはどんなことが必要でしょうか」という問いかけに対し、「常に好奇心を持つことだと思います。毎日の通勤路をちょっと変えてみるといった具合に、いつものパターンとちょっと違うことをやってみるなど、小さなことから始めることができます。いろんなものを持ち込むことによってそこで化学反応が起きるのではないでしょうか」とアドバイスしました。
鵜澤によると、この「と」の力、すなわち「and」という考え方は、経済価値と社会価値を両立させる、マイケル・ポーターの言う「CSV経営」に相通じる考え方と指摘しました。渋澤氏はさらに「andはwithでもあり、単純な足し算ではなく、合わせることによってかけ算が起こるイメージです」と述べました。
最後に、人的資本に対しどれだけ経営資源を配分すべきか、つまり投資に対するリターンは出せるのかという難しい質問も寄せられました。渋澤氏は「ポートフォリオの中で全てがうまくいくことはまずありません」と語り、自然な新陳代謝を高めることがポイントだとしました。未来というものは分からない以上、アウトプットを正確に測ることはできません。そこをいかにメジャメントしていくかが、HRDXの面白いところだと言えるでしょう。
※出典:澁沢 栄一『論語と算盤』(国書刊行会、1985年)
ニューノーマルにおいては、財務的価値だけでなく非財務的価値の向上も求められます。政府の「新しい資本主義」も同じ問題意識に立ち、成長と分配の好循環化を目指しています。その中で新たな価値を生み出すには、日本の資本主義の父、渋沢栄一が本書を通して訴えた「と」(and)の力をいかに生かすかが問われるでしょう。