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水嫌いの少年がオリンピックでメダルを獲るまで


情報センサー2022年3月号 Column


スポーツキャスター 宮下純一
1983年、鹿児島県鹿児島市生まれ。5歳から水泳を始め、9歳のときに背泳ぎの選手に。2008年の北京オリンピック競泳男子100メートル背泳ぎ準決勝で53.69秒のアジア・日本新記録(当時)を樹立。決勝では8位入賞。同400メートルメドレーリレーでは日本チームの第一泳者として銅メダルを獲得。現在はスポーツキャスターとして活動する一方、(財)日本水泳連盟競泳委員として選手指導・育成にも携わっている。

小学1年生の夏。地元・鹿児島市のスイミングスクールで開催されている桜島・錦江湾横断遠泳にチャレンジしました。桜島を背にして、鹿児島市内の磯海水浴場まで約4.2キロを泳ぐ行事です。小学1年生にとって、4.2キロは相当な距離です。もちろん、途中で船につかまってもいいし、疲れたら休憩してもいいよと言われていました。ですが、僕は負けず嫌いなので、泳ぐからには絶対に船につかまらないぞと強い決意で泳いだことを覚えています。

とはいえ、海はやはりプールとは全然違います。隊列を組んで100人くらいで泳ぐのですが、目的地の町がすごく小さくしか見えなかったのでとても不安でした。下を見たら海は真っ暗で怖いし、水はしょっぱいし。「あとちょっとだから!」「がんばれ!」という周囲のお兄さん、お姉さんたちの声に励まされて、ゴール地点にあるちょっと高いマンションを目印にして無心で泳ぎました。小さかった町がどんどん大きくなっていくにつれて、「あ、自分は泳げているのだな」ということを実感して奮い立ちました。その結果、僕は初めて小学1年生で完泳することができました。

I 水嫌いだった幼少時代

このエピソードを話すと「やっぱりオリンピックでメダルを獲る人は小さい頃から特別だったのですね」と言われます。だけどそうではないのです。実は、僕はその1年半くらい前まで、シャンプーハットをかぶらないとお風呂にも入れないくらい水が嫌いな子どもでした。とにかく水が顔にかかるのが嫌で、親もあまりにも嫌がるので目に水が入らないよう注意して育てていたそうです。

そんな僕ですから、もちろん幼稚園の水遊びにも参加できていませんでした。ある日、見かねた先生が「純一くんはこのままだと小学校の水泳の授業に出られないと思います。悲しい思いをすると思うので、スイミングスクールなどで水に触れることをお勧めします」と母にわざわざ電話をくれたそうです。さすがにそれはマズイということになり、僕は母に連れられてスイミングスクールに行くことになったのですが、普通だと月1回くらいからスタートするスイミングスクールにいきなり週4回通うことになりました。行きたくないと駄々をこねてはいましたが、それでも水中に長くいればいるほど水には馴れていきます。プールを好きな子が月に1回だけ泳ぐのと、嫌いな子が月に16回泳ぐのでは差が出てきます。そのこともあり、そこから1年半で僕は4.2キロの遠泳を泳げるようにまでなったのです。水の中にいる時間ってそれほど大事なのです。

Ⅱ 「壁を越えるのを見てみたい」恩師の言葉

僕は背泳ぎで北京オリンピックに出場したのですが、最初から背泳ぎの選手だったわけではありません。もともとはクロールで大会に出ていました。ただ、クロールでは10位とか9位で、市内の大会でも予選を突破できないぐらいでした。あるときコーチから「クロールで9位なのが、ひっくり返した背泳ぎだと6位になるぞ」と言われたのです。それで、背泳ぎでエントリーして出場したら、初めて表彰台手前くらいの成績を出せました。「頑張っていたクロールよりも、背泳ぎのほうが成績がいいんだ」と、背泳ぎに転向しました。僕の負けず嫌いな性格を理解して、そのとき背泳ぎを勧めてくれたコーチとの出会いは大きかったですね。

そこからは鹿児島県で一番速い記録を出したり、中学でも全国大会に出たりするようになりました。とはいえ、そもそも水が嫌いだというところからスタートしているので、そこまで水泳に一生懸命ではありませんでした。そんな時に遊びたいという欲が出てしまい、周りからも「逃げるな、負けるな」ということ言葉をたくさん掛けられて水泳を辞めたくなったことがあります。保健体育の先生に相談すると、「お前は今、壁にぶつかっているんだよ。ここでどうするかで人は差が出てくる。水泳をやりたくないなら辞めてもいいけど、俺はお前がその壁を乗り越えるところを見てみたいな」と、唯一、その先生が言ってくれたのです。あのとき、先生が他の人と同じように「壁を乗り越えろ!」と言ったら、僕の性格上、辞めていたかもしれません。ですが、“見てみたい”という言葉がスッと心に入ってきて、頑張った先にオリンピックが見えてくるかもしれないと思えてきました。そこから一気に記録が伸びていきました。

Ⅲ アテネ五輪落選、はじめての挫折

筑波大学に入学し、日本ランキングでも3~4位くらいの成績になると、周囲からの宮下純一はアテネオリンピックに行けるのではないかという期待が高まってきました。正直、僕もずっと階段を登り続けていたので行けると自負していたのですが、代表選考から漏れてしまいました。選考会で2位までがオリンピック代表となるところ、3位となってしまったのです。僕にとって初めての大きな挫折でした。

アテネオリンピックに出ることが決まった他の選手のインタビューなどを聞いていると、みんなはここで倒れてもいいというくらいの強い気持ちで選考会に臨んでいたのに対して、僕はふわっとした気持ちで選考会を迎えてしまっていました。その差が「落選」という結果となって自分に突きつけられたのです。そこではじめて、なぜ自分はもっと頑張れなかったのかと、負けたことではなく、やれることをやらなかった自分自身に対してとても悔しくなりました。

それから4年。結果として僕は北京オリンピックに出場しました。正直、アテネから北京までの4年間は大変辛いものがありました。大学を卒業して社会人になったことで、成績を残し続けないといけないという重圧に負けそうになっていた時期もありました。学生時代であれば、タイムが出なかったら次の試合をがんばろうとなるわけですが、社会人になるとそうはいかない。なので、4年間はオリンピックのことだけを考えて過ごしました。オリンピックに出場できたのは、その期間、自分の持ち味を生かすメニューを考えてくれたコーチの力も大きかったと思います。

Ⅳ 北京オリンピックのチーム力

北京オリンピックでは背泳ぎの100メートル準決勝で当時の日本新記録を出すことができました。100メートル×4のメドレーリレーでは銅メダルも獲ることができました。あのときの日本チームは、(北島)康介さんを中心にみんなが必ずメダルを獲るのだという同じベクトルで一つになっていました。メドレーは、全員がベストパフォーマンスをしなければメダルに届かないという状況でしたので、トップで泳ぐ僕はスタート台でバーを握る手が震えて止まらなかったのを覚えています。泳ぎ切ったあとは、次泳者に「頼んだぞ」と託すだけ。最後の最後まで分からない展開で、着順が出た瞬間は「やったー!」と......。あのときの興奮は今でも鮮明に蘇ってきます。北京オリンピックを最後に僕は選手を引退しましたが、悔いのない水泳人生だったと思います。なにしろ5歳までシャンプーハットをかぶっていた水嫌いの子どもが、オリンピックに出られたわけですからね。少しずつの成長体験が実を結び、人生が開けてきたのだと思います。(談)


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※ 情報センサーはEY新日本有限責任監査法人が毎月発行している社外報です。

 

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