ビジネスにおける地政学戦略-「不確実性の時代」にこそリスクをチャンスに変える戦略を
情報センサー2021年3月号 Trend watcher
EYストラテジー・アンド・コンサルティング(株)
EYパルテノン 地政学戦略グループ
Ⅰ ビジネスにおける地政学戦略とは
ビジネスにおける地政学戦略とは、国際政治経済や政策分析といった視点を組み入れることで、より機能するビジネス戦略の構築を目指すものです。もちろん、国際政治経済や政策分析そのものは、新しい領域というわけではありません。これらは、研究機関やシンクタンクによって取り扱われる領域であり、分析やレポートも数多く出されてきました。一方、これら既存の分析については、ビジネスにおける戦略の構築や実行において、直接的な活用がなかなか難しいという課題がありました。このような課題も踏まえ、研究機関やシンクタンクと対象とする領域は同じながらも、企業レベルの戦略に直結する示唆の導出を目指すという点で、ビジネスにおける地政学戦略には新しさがあります。また、戦略コンサルティングをはじめとするアドバイザリーサービスにおいても、業界や企業レベルの分析や戦略構築へのマクロ視点の取り込みは、新たな試みといえます。
Ⅱ 今こそ欠かせない地政学的視点
ビジネスへの地政学的視点の取り入れは、機能する戦略の構築において、単に有益なだけではなく、今や不可欠な要素となりつつあります。もちろん、国際政治経済や政策の動向は、どの時代においてもビジネスに大小の影響を与えてきました。しかし、近年、その動向が業界や企業に与える影響は無視できないほど大きくなっています。英国のEU離脱(ブレグジット)の端緒となった国民投票、ドナルド・トランプ政権を誕生させた米国大統領選挙などのあった2016年は、一つの大きな転換点でした。この年以降、グローバル化に懐疑的な勢力が各国で伸長し、トランプ政権下で米中対立も深刻化することとなります。米中対立に見られるように、政治とビジネスの間の「政経分離」の前提が大きく動揺し、各国の政治的な思惑がビジネス環境を左右したり、ビジネスが国家間の政治的対立の主戦場となったりと、業界や企業を取り巻く外部環境も大きく変質してしまったのです。新型コロナウイルス感染症によるパンデミックへの各国の対応についても、公衆衛生の観点だけでなく、地政学的な観点も踏まえて読み解くのが適切です。このような世界では、国際政治経済や政策の動向を前提として整理した上で、その前提に基づいて業界や企業レベルでの分析や戦略構築を行うことが必須となります。別の言い方をすれば、地政学視点を取り込むことではじめて、より機能するビジネス戦略を構築することが可能となるのです。
Ⅲ 不確実性を「言い訳」にしないために
「不確実性の時代」や「VUCA(Volatility, Uncertainty, Complexity and Ambiguity)の時代」ともいわれる昨今、ビジネスにおいても、将来予測の難しさが強調されるようになりました。確かに、大規模自然災害やパンデミックのような、誰もが予想できないブラックスワンの出現は、これからも避けられるものではありません。一方、ビジネスにおいて、不確実性を「言い訳」に、中長期の視点を取り込むことを諦めたり、おろそかにしたりしていては、意味のある戦略はほとんど描けなくなってしまいます。不確実性を「言い訳」にしないためにも、これまで不確実性として片付けていたことを、再度見直す必要があります。
この不確実性を読み解く上で役立つのが地政学的視点です。近年高まっているとされる不確実性の背景を探ってみると、その多くが不安定な国際情勢に関するもので、米中関係の行方はその代表例といえます。確かに、トランプ政権下での追加関税措置の発動、それに続いた報復措置の応酬といった事象は、不確実性を象徴する出来事と言えるかもしれません。しかし、この米中関係においても、より細かい粒度で分析すると、今後のシナリオや各業界への影響について、一定の見立てを持つことは可能となります。
米中関係の悪化は、通商だけでなく、投資、知的財産、テクノロジーなど多様な領域に影を落としていますが、領域によって、さらには業界や企業ごとに、その影響の表れ方や時間軸は異なります。「貿易戦争」自体は、対中貿易赤字を問題視したトランプ政権による追加関税措置に端を発するものですが、対立の根本には米中間の政治体制の違いや、台頭する中国に対する警戒の高まりなど、構造的な問題が存在します。実際、政治的な分断の広がる米国においても、中国への厳しい見方は党派を超えて共有されています。このような背景や現状を考慮すると、米中対立は中長期的に継続するものと考えられます。一方で、想定される影響のシナリオは領域ごとに異なります。例えば、貿易赤字を問題視する立場は、トランプ政権の特徴であり、ジョー・バイデン政権下では関税措置の応酬といった事象は生じないと思われます。他方、投資、知的財産、テクノロジーといった領域での規制や競争などは、政権にかかわらず中長期で継続すると考えるのが妥当でしょう。なお、民主党では、中国の人権状況への懸念が大きいこともあり、今後、サプライチェーン上の人権環境といった新たな論点が生まれてくる状況も想定しておく必要がありそうです。
米中関係の行方は一例ですが、一見すると不確実性の高いと思われる事象についても、地政学的な視点を取り入れることで、より粒度の高いシナリオを考えることができます。そして、そのシナリオがあってこそ、機能する戦略を構築し、さらに実行することができるようになるのです。
Ⅳ リスクをチャンスに変える
不確実性の読み解きは、事業環境上のリスクを明らかにし、それらの戦略的な回避または低減を可能にするものですが、地政学視点の取り込みをさらに一歩進めると、リスクをチャンスに変えることもできます。特に、不安定な国際情勢下での政策変更は、事業環境上のリスクとなる一方、新たな事業機会が生まれる契機ともなります。地政学的視点を踏まえた政策分析によって、リスクをチャンスに変えることも可能になるのです。
例えば、米中間の「貿易戦争」や他の領域での対立の深刻化は、中国での事業リスクを高めることとなりました。実際、業界によっては、サプライチェーンの見直しや、中国からのデカップリング(切り離し)など、想定されるリスクを踏まえた戦略の再構築が進められている状況です。一方で、米中対立の中長期化が見込まれる中、中国の事業全てがリスクに直面するわけでもありません。この点、政策分析を行うことによって、中国で生まれる潜在事業機会を見いだすことができます。
米国との対立に直面した中国は、経済成長のドライバーについて、これまで中心であった外需だけでなく、内需も大きな柱にするとの方針を打ち出しました。これは、「双循環」と名付けられた方針ですが、昨年の全人代で表明された、内需拡大戦略の実行を通した経済発展パターンの転換方針とも軌を一にするものです。全人代で示された政府活動報告には、各種の新型インフラ、5G基地局、EV(電気自動車)用の充電スタンドなどの整備から、新型都市の建設、環境保護産業の発展まで、今後の重点領域が具体的に示されています。重点領域における成長や投資の計画は、省や市などの地方政府の政策にさらに詳細に記されており、これらを分析することで、領域ごとに、具体的な地域や規模も含め、事業機会を洗い出すことができるのです。
近年は、テクノロジーやデジタルに関する領域、環境や持続可能性に関する領域においても、各国間の政治的な駆け引きや、それに伴う政策変更などの影響が極めて大きくなっています。一方、企業のテクノロジーの活用や環境への向き合い方は、その企業の長期的価値(Long Term Value)をも左右するものです。これらの領域においても、政策分析を活用することで、中長期のリスクを事前に把握するとともに、チャンスを相当の粒度で特定し、長期的価値の向上につなげることができます。
Ⅴ EYの地政学戦略グループ(Geostrategic Business Group)について
企業において、戦略の構築や実行に地政学的視点を取り入れることの意義は、ますます大きくなっています。そうはいっても、国際政治経済や政策の動向を全てフォローする必要はなく、業界や自社の事業に影響を与える領域や論点を特定し、それに絞った情報収集を実施するのが効率的です。情報収集についても、ほとんどの場合、各国の政府発表や報道など、公開情報で十分と言えます。非公開の情報源を探るより、複数の公開情報から事象を立体的に分析するほうが、ビジネス向けの示唆出しにおいてはむしろ有益です。
EYでは、グローバルに地政学戦略グループ(Geostrategic Business Group)を設置し、東京を拠点とする専門家も参画しています。そして、日本においても、海外を拠点とする専門家と連携しつつ、日本企業の文脈に沿った支援を提供できる体制を整えています。具体的に提供可能な支援は、業界や個別企業に必要な論点に絞った国際政治経済情勢についてのブリーフィングや、地政学視点を取り入れた戦略構築と実行の支援、政策分析を取り入れた市場調査や予測など、多岐にわたります。また、個別企業の事業の実態を踏まえた、フォローすべき地政学関連の論点の絞り込み、情報収集から戦略への反映や実行までを可能にする社内体制の在り方などの討議にも対応しています。「不確実性の時代」であるからこそ、地政学的視点を取り入れ、リスクをチャンスに変える戦略を検討する意義は高まっています。EYにおいても、同認識のもと、地政学戦略グループを中心に各種関連サービスを提供していきます。