企業の価値創造と気候変動対応
情報センサー2019年11月号 FAAS
FAAS事業部 気候変動・サステナビリティサービス(CCaSS)
米国CFA協会認定証券アナリスト 松本 千賀子
気候変動やESG対応を企業経営に統合する業務を中心に担当。当法人入所前は、世界銀行と米州開発銀行において、国際開発金融とサステナビリティ分野で約20年の経験を持つ。一橋大学国際公共政策大学院にて講師、東京大学グローバルリーダー養成プログラムの産官学アフィリエート委員会 委員。ハーバードケネディースクール大学院修士。当法人 アソシエイト・パートナー。
Ⅰ 企業価値評価の新しいトレンドと気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)による提言
ESG、CSRやサステナビリティに関する企業活動(以下、これらを包摂する概念をESGとして表記)は、近年においては中長期の企業価値創造に影響を与える重要要素であるとして、日本のビジネス界においても投資家や経営陣が注目する重要課題となってきました。その背景には企業価値の評価に関する考え方に起こっている大きなシフトがあり、それがESGの重要性を適切に理解するに当たり見過ごすことのできないトレンドの一つとなっています。1970年にニューヨークタイムズマガジンがミルトン・フリードマンの企業の社会的責任に関する論稿を掲載しましたが、そこでのフリードマンの主張は「企業の社会責任は利益拡大」であるとの点でした※1。この定義がその後の利益至上主義を中心とした資本主義経済を牽引(けんいん)してきたと考えられています。しかし、2007年のリーマンショックにより金融危機が世界経済に大打撃を与えたことを通し、四半期決算ごとの利益を追う「ショートターミズム」の行き過ぎが金融危機を招いた一原因であったとの反省から、中長期的な企業価値をもっと重要視すべきだとのトレンドが台頭してきています。このトレンドの象徴的な表現として、2019年8月に発表された米国主要企業の経営者団体であるビジネス・ラウンドテーブルの宣言があります。1997年以来「企業は主に株主のためにある」と定義してきたビジネス・ラウンドテーブルは、今回の宣言では定義を大幅に変更し、企業にとっての主要ステークホルダーとして①顧客②従業員③取引先④地域社会⑤株主を挙げ、資本主義の在り方を変える新たなビジネスモデルへの転換を示すとして欧米や日本のメディアでも取り上げられ、注目されました※2。
こういったトレンドの中、ESGの世界では、財務情報のみに依存した企業価値評価には限界があり、財務情報とESG関連情報※3の総合的な観点から企業価値を評価する必要があるとの思考が機関投資家を中心に広がっています。これをバリュー投資の視点から見ると、企業価値には企業の真の価値(内在価値※4)と市場メカニズムを通して株価に現れる価値があり、それらは必ずしも一致しておらず、バリュー投資家は内在価値が株価より大きいときに「買い」、小さくなると「売り」の行動を取ります。ESGに注目する多くの機関投資家は、中長期における企業の内在価値を読み解く鍵が企業のESG活動にあると見ていて、企業のESG活動の価値を明示化・定量化する方法を求めています。産業別に、また産業を超えて比較可能なESG情報の評価基準の確立、さらには企業のバランスシートやP/LへのESGのインパクトを示す定量化された財務的情報としての開示が求められていて、それがグローバル・ムーブメントとなっています。昨今日本でも注目を集めている「TCFD提言に基づく気候変動リスクと機会の開示」は、このムーブメントの試みの一つで、気候変動という限定した分野においてですが、中長期における企業価値への影響やインパクトを定性・定量分析し、財務的情報として開示するためのフレームワークを提示しています。
Ⅱ 主要ビジネスリスクとしての気候変動
気候変動の影響の定量化や財務インパクトというと複雑なことのようにも聞こえますが、参考となる過去事例は日本国内にもあります。例えば、60年代から70年代にかけての日本では大気や水質汚染が生じ、公害問題がありました。公害対策の環境規制が始まると、それまで有害物質を垂れ流してきた企業は、新たな設備投資をして有害物質の排出を減らさなければなりません。そうなると企業のバランスシートやP/Lに、環境のコストが計上されるようになったわけです。気候変動に関しても、CO2等のグリーンハウスガスの排出を制限する規制が世界的に導入されつつあります。いま世界中にある化石燃料資産は2,700ギガトンといわれています。パリ協定※5通りのシナリオに世界が動いていくと、地球上で企業が保有できる化石燃料資産は900ギガトンに過ぎません。1,800ギガトン余りの資産はいわゆる座礁資産になってしまいます(<図1>参照)。気候変動を重視する投資家や企業はここをみて、自社の投融資ポートフォリオや事業ラインに化石燃料資産がある場合は、どのタイミングで売るかを考えていて、そういうお金の動きがシナリオ分析を基にしたバックキャスティング※6の経営戦略によって出始めているのです。
また、気候変動はESGにおける環境課題の一つと理解されますが、その重要性が昨今急速に認識されています。世界経済フォーラムが2018年に発表した企業の重大リスクの上位5位のうち三つが気候変動に関するリスクでした。さらに、人口動態の変化によるグローバル社会での価値観の変化も影響しています。現在の世界人口は約77億人ですが過去50年間で急激に増加し約2倍となり、どのような対策を講じても100億人を超えることは確実と予想されています。世界の人々を養うには地球一つではもはや足りず、「無尽蔵の資源をもつ地球」から「限りある資源の地球」への地球観の変化が起こっています。
Ⅲ TCFD提言に基づく気候変動リスクの開示状況
EYの気候変動とサステナビリティのグローバルネットワークが2018年後半に出した調査報告書※7によると、TCFD提言に基づく気候変動リスクと機会の開示は、世界中で取り組まれており、産業セクター別に見ると気候変動のリスクが高い鉱業、製造業、輸送業、エネルギーといったセクターと、気候変動によるビジネス機会が大きい情報通信やテクノロジーセクターでの開示が進んでいます。国別では気候変動に関する具体的な開示規制があり、ESG情報開示が全般的に成熟している英国、フランス、ドイツ、スイス、オーストラリア、米国においてTCFDの開示が進んでいます。(<図2>参照)
日本においても今年5月にTCFDコンソーシアムが設立され、TCFD提言に基づく開示への取り組みが多くの企業で進められています。TCFD提言が公表されたのは2017年6月で、投資家や株主の意思決定に有益な気候変動関連情報を企業が提供するには、数年を要すると想定されています。その一方で、海外では気候変動対応に関する具体的な動きが起こっており、数年前から気候変動対応を企業戦略に取り込んで新規事業への投資やリスク管理を進化させ、事業の再編成を図っている企業もあります。
Ⅳ 経営者マターとしての気候変動対応
TCFD提言は、気候変動の影響を経営戦略に取り込む枠組みを提示しており、その実行においては企業のサステナビリティ部門等が中心となりますが、リスク管理、財務、事業部、経営企画部といった多様なファンクションの巻き込みが不可欠です。こういったことを考えると、企業の気候変動対応は単なる情報開示の問題ではなく、経営陣が取り組むべき経営戦略マターと捉えることが、今何よりも求められています。日本企業は、過去においては公害という社会課題に取り組む中、環境保全対応の分野でさまざまな技術革新を起こし、世界をリードしてきました。気候変動問題は、どの時期に何が起こるのかを的確に予測できない不確実の世界を相手にしなければならない困難な課題です。しかし、この不確実性の中にこそ、次のイノベーションや成長を生む大きなチャンスが埋もれていると考えられます。シナリオ分析やバックキャスティングの手法を用いて不確実性を企業経営に取り込み、グローバル社会において日本企業が革新的なリーダシップを発揮すること、これこそ気候変動対応が日本企業に問うている社会的な課題ではないでしょうか。
※1 Milton Friedman (1970)"The Social Responsibility of Business is to Increase its Profits", The New York Times Magazine, September 13, 1970.
※2 日本経済新聞(2019年8月20日夕刊)
※3 非財務情報とも呼ばれている。
※4 英語ではIntrinsic Value
※5 パリ協定とは2020年以降の地球温暖化対策の国際的枠組みを定めた協定で、地球温暖化対策に全ての国が参加し、世界の平均気温の上昇を産業革命前の 2℃未満(努力目標 1.5℃)に抑え、21世紀後半には温室効果ガスの排出を実質ゼロにすることを目標としている。
※6 現時点を原点として、例えば3年先までに何ができるかという考え方が中期経営企画によく見られる企業戦略だが、それに対して、例えば2030年までにここまで達成するためには今の時点で何をするのかと思考するのが、バックキャスティングによる経営戦略
※7 How are your climate change disclosures revealing the true risks and opportunities of your business? Global Climate Risk Disclosure Barometer 2018