業種でみる海外KAM先行事例 ~ライフサイエンス業
情報センサー2019年10月号 業種別シリーズ
ライフサイエンスセクター 公認会計士 冨田 哲也
ライフサイエンスセクターナレッジ・サブリーダーとして、主に当法人の製薬企業の監査担当者へのサポートやナレッジ発信を担当。所属する松本事務所では、金融機関、製造業、株式上場準備会社などの監査業務を担当している。
Ⅰ はじめに
改訂監査基準に基づいて、2020年3月決算の監査から「監査上の主要な検討事項」(KAM:Key Audit Matters)の早期適用が始まります。KAMの導入準備段階では、KAMの記載内容に関する候補選定が行われ、監査人と経営者および監査役等との協議が行われることとなります。このため、業界の先行事例の検討は有用な情報となります。本稿では、主に欧州における近年のKAMの記載事例の中で、ライフサイエンス企業に関する記載の分析結果から、業界特有の記載内容を解説します。
Ⅱ 欧州のライフサイエンス業界の先行事例
KAMは個々の監査業務における相対的な重要性によって決定されるため、同じ業種に属する企業で統一的な記載を求められているものではありません。しかし、業種によっては、市場環境、規制、商慣習などの共通のリスク環境が存在することによって、業界特有のKAMの記載内容が見られることもあります。日本よりも先にKAMが導入された英国やオランダなどの欧州におけるライフサイエンス企業のKAMの記載内容をテーマ別にまとめていくと、共通点が多く見られます。
まず、見積りの不確実性が高いと判断される会計上の見積項目に関して、KAMに記載するケースが多く見られます。ライフサイエンス業界では活発にM&Aが行われていることから、のれんや無形資産の評価に関連した記載が多くなっています。このほか、ライフサイエンス企業に特有の記載について、以下の三つの内容を説明します。
【欧州ライフサイエンス企業におけるKAMの主な記載内容】
- 偶発債務・訴訟関係
- ライセンス契約の複雑さ
- 収益認識(リベート、値引、返品等)
1. 偶発債務・訴訟関係
ライフサイエンス業界は厳しく規制された業界であるため、訴訟、製造物責任、規制当局からの措置命令などによって、多額の偶発債務が生じる可能性が高いことから、偶発債務や訴訟がKAMに多く取り上げられています。この中で、訴訟に関しては、特許権など各種権利に関する企業間の訴訟のほか、患者や利用者からの副作用や集団的なクレームに関する訴訟などが生じるケースが考えられます。これらの状況を踏まえて偶発債務の注記や訴訟費用の引当金が計上されており、潜在的なリスクを考慮してKAMへ記載が行われることとなります。また、業界の規制当局は、ライフサイエンス企業の研究開発、製造、物流、販売など業務全般に対する要請を行っているため、企業を取り巻く規制に対する違反行為により罰金などのペナルティーが生じるリスクは、他の業界に比べて高いと考えられます。グローバルでの対応が必要な事案に関しては、各国規制当局への対応が必要となる場面もあります。偶発的な要素も踏まえると会計処理はより複雑となり、多額となるケースも見られることから、KAMへの記載が行われているものと考えられます。
2. ライセンス契約の複雑さ
ライフサイエンス業界では、複数の企業間のパートナーシップが活発に行われています。例えば、創薬ベンチャーが、所有している特許など研究開発の成果を基にしたアライアンスを製薬企業と締結することは頻繁に行われています。このようなライセンス契約は、開発ステージ、成功確率、スケジュール、市場導入後の収益化計画、開発コストなど多くの要素を考慮して、企業間の交渉結果として締結され、契約条件・契約内容が複雑化することが見受けられます。複雑な契約条件を持つライセンス契約をもとに、ライセンス・アウト側の企業は収益などが認識され、ライセンス・イン側の企業では研究開発費や販売権などが認識されるため、それぞれの立場で会計処理に反映させることには慎重な判断が要されることとなります。このように契約内容の複雑さとそれに伴う会計処理に関する経営者の判断の重要性を考慮して、KAMに記載しているものと考えられます。
また、ライフサイエンス企業の研究開発期間は長期間を要し、ライセンス契約に関する費用配分を合理的な期間に配分するためには、相応の見積りが必要となることを理由として、KAMに記載している事例も見られました。
3. 収益認識(リベート、値引、返品等)
ライフサイエンス業界における販売活動の中で、値引、返品、リベート(割戻し)、アローアンス(販売促進協賛金)などといった複合的な契約条件が含まれるケースが多く見られます。複数の要素を含む販売契約に関しては、収益認識のタイミングや表示を誤るリスクがあるためKAMに記載している事例が見られます。このような収益の控除項目に関する記載の中で、米国におけるマネージド・ケア、メディケイド、メディケア※1、チャージバック※2など複雑化しているリベートに言及するケースがあります。マネージド・ケアとは、従来、医師と患者との間で決定されていた医療行為に対して、保険者などの第三者が介入し、その内容を規定する仕組みのことをいいます。オバマケア導入以後、メディケイド適用対象者の拡大に伴って、メディケイドの運営に当たる各州は、企業にリベートの請求を行うこととなりました。このような経緯がある一方で、米国市場の環境は価格設定に対するプレッシャーが増加しており、米国市場におけるリベートなどの計算はさらに複雑化しているため、会計上の見積りに関するリスクが高まっていることを背景に、KAMに記載したものと考えられます。
Ⅲ 日本における先行事例
日本におけるKAMの適用開始に先立って、任意でKAMに相当する事項の開示を行っている企業があります。グループ企業の中にライフサイエンス企業が含まれていることから、開示されたKAMにはライフサイエンス企業に特有の仕掛研究開発費に関する記載が見られます。なお、この記載はIFRSの適用が前提になっている点に留意が必要です。
基準上記載が求められているKAMの内容と決定理由に関しては、仕掛研究開発費の減損テストにおける将来キャッシュ・フローの見積りにおいて、研究開発の不確実性を伴っている経営者の判断が必要であるとの記載が見られます。見積りにおける重要な仮定は、規制当局の販売承認の取得の可能性、上市後の販売予想および割引率とされており、ライフサイエンス企業の特有の論点が記載されたものとなっています。
監査上の対応の中では、規制当局による販売承認の可能性の検討を行うため、製品の開発状況および成功確率に対して行っている手続が挙げられています。また、上市後の販売予想について、主要なインプットである販売単価、販売数量、マーケットシェアに関して、外部機関による市場予測と比較している手続などが記載されており、これらの記載にもライフサイエンス企業の特徴が表れています。
Ⅳ おわりに
KAMに関する欧州の先行事例は、ライフサイエンス業界の特徴的な環境から生じるリスクを踏まえた記載が多く見られます。日本においても、高齢化社会の進展と医療費抑制の政策など、業界に対する規制や要請は年ごとに変化していくことが予測されます。このような中で、業界の環境変化を的確に捉えたKAMへの対応が行われていくことになると考えられます。
※1 メディケイド、メディケアは、米国の公的医療保険制度。メディケイドは連邦政府と州が実施し、主な対象は低所得者層。メディケアは連邦政府が実施し、主な対象は65歳以上の高齢者、65歳未満の障害者、慢性腎不全患者など。
※2 チャージバックは、製品の流通過程において発生する赤字を製薬会社が負担することを取り決めること。